Monday, September 30, 2019
ら抜き言葉が問題になってから久しい。
個人的な結論を先にいうと、「ら抜き言葉は、正しい日本語の進化です。」
食べることができるという意味で、
食べれる。 →文法的には間違い
食べられる。 →文法的には正しいが、、、個人的には反対!
そもそも、5段活用の動詞だけが意志動詞という建前なので、5段活用の動詞にしか、いわゆる、「ら抜き」の可能動詞は認められていない。
まあ、ここに、まず最初の異論があるわけで、5段活用の動詞だけが意志動詞である、という前提は、既に崩れてるわけで、
下1段活用でも、上1段活用でも、意志を示す動詞というのは、現代ではあふれてるわけです。
要は、
「意図でどうにでもなる、という意味を持った動詞は、5段活用でなくても、可能動詞を認めるべき。」
ということ。
例えば、
食べる。 5段活用ではないが、意図でどうにでもなるので、可能動詞は認めるべき。食べれる。
晴れる。 5段活用ではなく、意図でどうにでもないので、可能動詞はない。「晴れれる」は変。
ということです。
現代に言葉を使う人は、神の意図などは考えないわけですから。
(注:微妙に他動詞しか、可能動詞にならないとかいう規則もあるらしく、実際は複雑。)
ここまで述べたことで、私の、小学校6年に国語の文法を習ってから以来の、言いたかったことが、言い終えました。
以上、、、、
というわけにいかず、ここからが、本題。
5段活用の登る、からの可能動詞の
登れる。 → 文法的に、正しい。
で最近、ら入り言葉が問題になってきてるらしい。登ることがができるという意味で、
登られる。 → 文法的に、間違いだという人がいるらしい。
でも、個人的には文法的には間違いではない。
ちゅうことで、すべての、可能の意味で、ら入り言葉を使っていれば、間違いではないので、新入りアナウンサーなどは多用しているらしいので問題にされてる。
一方
5段活用の動詞では、ら入り言葉を使うのは間違い、という、主張があるらしい。個人的にはこの主張は間違いだと思うが、正しい意見だとは思う。(複雑だな。)
最も悪いのは、この現象を生んだ、放送局(かな?)と思います。
ええっと、、、、
一般人、55歳の私からすれば、
5段活用するのが、意志動詞という、文法上の前提は、かなり前から、崩れているのは事実。したがって、5段活用動詞でないと可能動詞が作れないというのはおかしい。
他動詞でないと、可能動詞になれないというのもおかしい。
可能の意味をあらわすのに、助動詞の、「られる」を使うと、受身、自発、尊敬、の意味と、区別できない。
従って5段活用の動詞以外も、受身、自発、尊敬の意味ではなく、可能の意味であることを強調するために、ら抜き言葉がプレゼンスをあらわしてきた。
結論として、「意志でどうでもなる。」意味を持った動詞は、5段活用だろうが自動詞だろうが、可能の意味でのら抜き言葉を認めるべき。
ちゅうことなので、ら抜き言葉は、正しい進化である、と思ってる。
それより、人為的に、間違いを避けるような意図で発展しつつあるとすれば「ら入り言葉」のほうが問題。
個人的な結論を先にいうと、「ら抜き言葉は、正しい日本語の進化です。」
食べることができるという意味で、
食べれる。 →文法的には間違い
食べられる。 →文法的には正しいが、、、個人的には反対!
そもそも、5段活用の動詞だけが意志動詞という建前なので、5段活用の動詞にしか、いわゆる、「ら抜き」の可能動詞は認められていない。
まあ、ここに、まず最初の異論があるわけで、5段活用の動詞だけが意志動詞である、という前提は、既に崩れてるわけで、
下1段活用でも、上1段活用でも、意志を示す動詞というのは、現代ではあふれてるわけです。
要は、
「意図でどうにでもなる、という意味を持った動詞は、5段活用でなくても、可能動詞を認めるべき。」
ということ。
例えば、
食べる。 5段活用ではないが、意図でどうにでもなるので、可能動詞は認めるべき。食べれる。
晴れる。 5段活用ではなく、意図でどうにでもないので、可能動詞はない。「晴れれる」は変。
ということです。
現代に言葉を使う人は、神の意図などは考えないわけですから。
(注:微妙に他動詞しか、可能動詞にならないとかいう規則もあるらしく、実際は複雑。)
ここまで述べたことで、私の、小学校6年に国語の文法を習ってから以来の、言いたかったことが、言い終えました。
以上、、、、
というわけにいかず、ここからが、本題。
5段活用の登る、からの可能動詞の
登れる。 → 文法的に、正しい。
で最近、ら入り言葉が問題になってきてるらしい。登ることがができるという意味で、
登られる。 → 文法的に、間違いだという人がいるらしい。
でも、個人的には文法的には間違いではない。
ちゅうことで、すべての、可能の意味で、ら入り言葉を使っていれば、間違いではないので、新入りアナウンサーなどは多用しているらしいので問題にされてる。
一方
5段活用の動詞では、ら入り言葉を使うのは間違い、という、主張があるらしい。個人的にはこの主張は間違いだと思うが、正しい意見だとは思う。(複雑だな。)
最も悪いのは、この現象を生んだ、放送局(かな?)と思います。
ええっと、、、、
一般人、55歳の私からすれば、
5段活用するのが、意志動詞という、文法上の前提は、かなり前から、崩れているのは事実。したがって、5段活用動詞でないと可能動詞が作れないというのはおかしい。
他動詞でないと、可能動詞になれないというのもおかしい。
可能の意味をあらわすのに、助動詞の、「られる」を使うと、受身、自発、尊敬、の意味と、区別できない。
従って5段活用の動詞以外も、受身、自発、尊敬の意味ではなく、可能の意味であることを強調するために、ら抜き言葉がプレゼンスをあらわしてきた。
結論として、「意志でどうでもなる。」意味を持った動詞は、5段活用だろうが自動詞だろうが、可能の意味でのら抜き言葉を認めるべき。
ちゅうことなので、ら抜き言葉は、正しい進化である、と思ってる。
それより、人為的に、間違いを避けるような意図で発展しつつあるとすれば「ら入り言葉」のほうが問題。